HOME ギャラリー 城西浪漫館の歴史 SO's Cafe アクセス リンク


中島病院旧本館と中島琢之先生について

 中島琢之先生は明治18年(西暦1885年)3月29日、津山市高野本郷河原森(当
時は苫田郡高野村)の医師大次郎氏の長男として生まれた。中島家は代々地頭職などを
つとめた家柄であった。

 関西中学から一高に進み、東京帝国大学医科大学(現東京大学医学部)を卒業し、同医
大入沢内科、日本医科専門学校教授、同校付属病院の内科部長として活躍していたが、
郷土の熱望に応えて大正3年に帰郷した。

 当初、津山市(当時苫田郡津山町)元魚町に私立中島病院を開設し多くの患者が詰めかけた。その後研究のため再度上京したい考えをもらすが、「せっかくの名医を失っては大変」と名士たちが引き止めた。とくに妹尾順平氏は熱心でレントゲンなど当時の最新機器を備えた病院を造った。

 建築場所は田町の西の端で南は坪井町である。建設当時の主要交通機関の鉄道は津山口までであり、当時は西今町が津山の玄関口で、坪井町は一番の繁華街であった。よってここが建設の最適地として選ばれた。工事ぶりを眺めながら、中島先生は「これで東京に出るチャンスを失った」と冗談交じり嘆いたと伝えられる。

 中島琢之先生は苫田郡医師会の初代会長(大正9年)岡山県医師会会長(昭和15年)さらに医学界での活躍ばかりではなく政治家として活躍され、昭和4年に誕生し津山市の初代市議会議長、昭和5年には衆議院議員に、その後再び市議会議長になり昭和10年には第3代津山市長などを歴任された。


昭和初期の中島病院